白か黒か

ねえ、信じられない話なんだけど。僕、昔は陽キャだったんだ。

僕が、インターネットの世界に足を突っ込む前の話。
仕事・恋愛・遊び、そのすべてが充実していた。たとえば30人規模の飲み会を企画したり、自宅に招いてパーティしたり、クラブで朝まで遊んだり、職場の子達とBBQ行ったり、胴上げされたり。それが上京して鬱病になってから、真逆の性格になってしまった。鬱で脳の構造が変わったんじゃないかと思うくらいに。そして誰もいなくなってしまった。白が黒に変わってしまった。随分と畑違いになってしまったけど、かつて陽キャだった頃の友達まわりのインスタグラムを眺めていて、ふとそんな事を思い出していた。

でも、この際ハッキリ言っておこう。今の自分も、意外と悪くないよ。きっとあの頃のパリピな自分から見ても、間違いなくね。
昔の僕「そっちのが性に合ってるじゃん。クールじゃん」。きっとそう言うと思う。ちょっとしたレアキャラ感あるし。それにさ、白が黒になるのも格好いいじゃん。オセロの逆転劇みたいでおもしろいでしょ。パンダみたいでかわいいでしょ。書道みたいで潔いでしょ。それに意外と白(あっち)の方が、深い闇なのかもしれないよ。

これは忠告というよりも、ひとつの提案だ。
友人や遊びのネットワークに依存した生き方よりも、僕みたく孤高の存在になる生き方が良くないかな?仕事は成就して、FIREして、今は誰にも依存せずに暮らしている。自慢じゃないが金もある。友達と呼べる人はほんの一握り。大勢のフォロワーなんて糞くらえ。ぼっち上等。どう?チャラチャラしたヤツより、よほどクールじゃない?そんな奴らよりも僕の方がイケてるって、本気で思ってるよ。

毎晩のように酒飲んでつるんでも、なんの成功にもなりゃしねえ。なんの生産性もありゃしねえ。朝には小便になるだけ。遊びのネットワークに依存するのは、楽しいけど終わりがない。それは闇だ。実態のない闇だ。
断言しよう。いつか皆、必ず遊びの場からいなくなる。必ずね。会社・同僚・チーム・共同経営、いつかはサヨナラする時が来る。自分が落ちぶれた時にね。わかってて付き合う、そういうのって寂しくないかな?僕はそんな寂しいもんに依存したくない。そういうもんにはなりとうない。
生まれながらにして、人は誰もが孤独だ。だからこそ家族を作るのだろう。結局のところ、自分の父母が体現していたとおり、信じるべきは “家族” だけなんだよね。

友達・恋人・会社・仕事。人生の興隆期にすべてを失った僕だから言える話。失わないと気が付かなかった。今でも飲み屋でうえーい!とかやってたかもしんねえ。チヤホヤされてモテと勘違いして、いつまでも夜遊びして、気付いたら誰もいない人生になってたかもしんねえ。手遅れになってたかもしんねえ。そう考えたら、あの時人生の階段につまずいて真っ逆さまに転げ落ちて、一回すべてを失って良かったとさえ思える。あー僕、鬱になって良かった。笑

結論。
黒は、生地の質ですべてが決まる。白は誤魔化せても、黒はそうはいかない。
“白い服を着たいのか、黒い服を着たいのか”。僕は後者だ。

おれ、気付いたんだよね。Instagramで海外の珍しい地方に行ったりして渾身のリールとか載っけたところで、それ誰も見たくない。誰も興味ないし、本当のところ誰もイイネなんて思っちゃいねえ。

結局のところ、みんな「推し」しか見たくないの。見たいのは「推し」の自撮りであり「推し」の服装であり「推し」のしょうもないストーリーズであって、相互フォロワーの食いもんとか旅行の写真とか子供かわいいとか、そういう自慢死ぬほどどーでもいいの。なんなら多分癪に障るくらいなの。ストーリーズも二枚目以降は飛ばしちゃう勢いなの。それなら自撮り画像でも載せた方がマシ。(盛れてないとしても)

Googleで「ウユニ塩湖」と叩けば死ぬほどキラキラ画像が出てくるオンラインで、相互フォロワーが撮ってきた海外の景色なんて見せられても羨ましくも何ともない。もはや自分自身が体験/経験してきたものにしか価値を見い出せない。それが今のSNSの真理なの。

そう考えると、InstagramにUPされている99%以上が、誰も見たくない、誰にも必要とされていない投稿なんだよね。果てしなく無駄な自慢話に対し、イイネという名のスルーパスしてるに過ぎない。その投稿に価値を見出しているのは「自分」だけ。後は、自分の「推し」だけ(親とか兄弟とかがそれに当たる)。恐ろしい話だよね。ここに書いたことに気付いている人、一体どれくらいいるんだろう?肌では薄々感づいていると思うけど。それを全部踏まえた上で、僕はストーリーズやってるけどね。笑